仕事から帰宅すると、妻の成子はさっそくテーブルの上に大判のカタログを広げた。
「これ、どう?」
赤ペンで丸く囲んだ写真を指差して「かわいいよね」と笑う。
七五三のレンタル衣装のカタログ、女の子用の晴れ着。成子が指差したのはグラデーションになった紅色の地に手まりや折鶴が裾模様になった着物だった。
「かおりに見せたら、一発でこれを選んだの。すごく気に入ってるみたいだから、明日の朝イチで申し込んじゃっていいよね?」
オレは、「うん、まあ・・・いいんじゃないか」と答えた。微妙に煮え切らない口調になってしまった。
「どうしたの?」
「・・・けっこう高いんだなあ、って」
税込み三万千五百円。手取り三十万そこそこのオレの給料でしているわが家の家計からすると、かなりキツい。
だが、成子は「だいじょうぶ」と笑う。
「着物のお金とか美容院のお金はお母さんが出すって言ってたし、お父さんもお祝いははずむって言ってたから」
笑い返す顔も微妙にこわばってしまう。
一人娘のかおりのためにまとまった出費が必要になるときは、いつも成子の両親がお金を出してくれる。
「お宮参りの前の記念撮影と、終わったあとのお食事会、だいじょうぶよね?」
その費用も向こう持ち。
かおりは成子の両親にとって初孫だ。一人娘の成子が産んだ、一人きりの孫。
オンリーワンがダブルだから、大げさでなく、二人はかおりを目の中に入れても痛くないほど可愛がってくれている。
「それでね、お母さんの本音としてはもうちょっと有名っていうか、大きな神社でやってほしそうなんだけど・・・」
「近所でいいんだよ、氏神さまなんだから」
遠出なんてしたくない。晴れ着姿の娘を連れて観光地まがいの大きな神社に出かけるのはオレの美意識が許さない。なるべく軽く、さらりと、「こんなのシャレだよ、シャレ」と笑えるように。
そんなオレの胸の内を察した成子は、「ふだん着はだめだからね」と釘を刺した。「せめてネクタイは締めてよ」
オレは黙って肩をすくめた。
アパートの前に行きつけの酒場がある。
仕事が早じまいした夜には、毎晩のように入り浸っている。
月々五万円の小遣いではとてもそんな贅沢はできないのだが、その店『ハセガワ』はちょっとしたワケありの店なのだ。
「学ちゃん、ヘルプいいかな」
カウンターで飲んでいたら、マスターが声をかけてくる。店の奥に設けられたステージでは、オレと同じ背広姿のサラリーマンがギターをかまえて指慣らしをしている。
「なにをやるって言ってるの?」
「クラプトンだって。クリームの頃の」
オレはヘヘッと笑い、ステージに向う。
初対面のパートナーに会釈して、ベースギターをかまえる。とてもエリック・クラプトンを弾きこなせるようには見えない相手だったが、まあいい、何曲か付き合ってやれば、これで今夜の飲み代は大幅割引・・・うまくすればタダになる。
『ハセガワ』は最近流行の「ライヴができる居酒屋」だった。フォーク系とロック系に分けるなら、ロック系。
ステージにはドラムスのセットも置いてある。
カラオケに飽き足らない元ロック小僧のオヤジたちが夜な夜な集まっては、居合わせた客同士でセッションを楽しんでいるのだが、客のほとんどはギターやヴォーカルをやりたがるので、ベースやドラムがどうしても手薄になってしまう。
そんな店側の事情と安く酒を飲みたいこっちの思惑とが合致してオレは専属ベーシストのような格好で出番を待ちながら飲んだくれているのだ。
今夜のギタリストは、第一印象どおり下手くそだった。
クラプトンというよりプランクトン。
本人は目を閉じて陶酔しきってギターを弾いているというのが、よけい笑える。
オレはコードの主音だけ押さえながら、ドラムスに目をやった。
ドラマーはオレと同じ助っ人の英五さん。 ひどいギターですね、とこっそり目配せすると、英五さんも苦笑してうなづいた。
それでも、リズムすらキープできないギタリストに合わせて音数を減らしたドラミングをしているところが、人柄というやつなのだろう。
オレにはできない。そこまで優しくはなれない。
落ちぶれたものだよな・・・。
ときどき思うのだ。
4年前、三十歳になったばかりのオレはプロを目指すバンドでベースを弾いていた。
メジャーデビューにあと一歩のところまで来ていた。惜しかった。
つまらないカネの貸し借りのもつれでバンドが解散さえしなければ、いや、たとえバンドがなくなっても、俺自身さえその気になっていれば、まだなんとかなったかもしれない。
だが、オレはプロになる野心を捨てた。捨てざるをえなかった。
当時恋人だった成子がかおりを妊娠したためだ。できちゃった婚である。
まったくわかりやすい夢の断ち切られ方である。で、中途採用の会社で慣れない営業職を続けながら、酔っ払った素人さんのギターやヴォーカルに合わせてベースを弾くのが、唯一の趣味。これも、ほんとうにわかりやすい未練というやつだろう。
「へい! ベース!」
すっかり舞い上がったギタリストが、バンマス気取りでベースソロをリクエストした。
ムカッときた。
本気で弾いた。十六小節、三十二小節、六十四小節・・・延々とソロをキメてやった。
ドラムスの英五さんもそれまでとは一転した熱いビートを刻んで応えてくれる。
呆然とするギタリストをよそに、オレはひたすら狭い店内に重低音を鳴り響かせたのだった。
「お疲れ様」の乾杯をすると、英五さんに「なにかあったのか?」と訊かれた。
英五さんはオレより年上ということしか知らない。職業も本名もわからない。
マスターとの会話からすると、近所の住民らしいのだが、、店の外で会ったことはまだ一度もない。
ドラムスの腕前は「素人にしては、そこそこやるな」という程度だが、包容力があるというか、たどたどしいギターや音程をはずしたヴォーカルに辛抱強く付き合って刻むビートには、なんともいえない温もりがある。
その温もりに甘えて、ここ数日、七五三の衣装を決めて以来ずっと胸に溜まってるもやもやを吐き出した。
「キツイですよ、七五三ってのは」
かおりが可愛くないわけではない。
成子とかおりとの家族三人の暮らしは、幸せだ、と胸を張って言える。
だが、七五三は、ちょっと違う。「良い」「悪い」という分け方ではなく、「違う」としか言いようがないイベントだ。
「だってそうでしょ? 着せ替え人形みたいな格好をした子どもを連れてパパもママもおめかしして、はい記念撮影です、皆さんチーズ・・・なんて、違うでしょ、ロックじゃないでしょ」
「照れくさいのか?」
「っていうか、それをやったらおしまいだぜっていうか・・・」
「なにがおしまいになるんだ?」
「だから・・・うまく言えないんですけど、オレはオレなんですよ、いまはフツーのサラリーマンで、フツーのパパやってますけど、やっぱ、根っこはオレなんですよ」
自分でもよくわからない。
ただ、ふだんの生活では胸の奥に引っ込んでいる昔のオレが、家族のイベントのときにかぎって顔を出す。
おいおい違うだろう違うだろ、そんなの違うだろ、といまのオレの肩を小突く。
成子の両親にお祝いをもらい、ごちそうしてもらって、「どうもありがとうございます」と頭を下げる自分を、冷ややかに見ている自分がいる。
かおりのお宮参りのときもそうだった。誕生日やクリスマスに成子の両親を招いてパーティーをするときも、そうだ。
ミョーに不機嫌になり、無口にもなって、あとでその日の写真やビデオを見ると、ニコニコ顔の家族の中でオレ一人だけしょぼくれた顔になっているのだ。
きっと、明日の七五三のお参りでもそうなってしまうだろう。
英五さんは、なるほどね、と小さくうなづき、「学は音楽を辞めちゃったこと、後悔してるのか?」と訊いてきた。
「・・・そういうわけじゃないんですけど」
「でも、いまの自分が嫌いなんだろ?」
「それも・・・ちょっと違うんですけどね」
英五さんは笑う。オレの答えを最初からわかっていたような笑い方だった。
「まだパパになりきっていない、っていう感じなのかな」
「パパですよ、そんなの、もう、ずーっと。だから髪も切ったし、ネクタイも締めてるし、まじめに働いてるじゃないですか」
だが、英五さんは笑うだけだった。
「・・・なにが可笑しいんですか?」
「いやあ、ガキだなあって思ってさ」
他の奴に同じことを言われたら、断言してもいい、胸ぐらをつかんでいる。
だが、英五さんの絵画をには、こっちの興奮を自然となだめるような余裕がある。
「で、七五三のお参りはどこに行くんだ?」
「近所ですよ、三丁目の三都神社。もうお祓いの予約してますから」
一瞬きょとんとした英五さんは、次の瞬間、はじけるように声を上あげて笑い出した。
「じゃあアレだ、学、青春の夢の残りカスをお祓いしてもらえよ」
「オレ、真剣なんですよ」
さすがにムッとして言い返すと、英五さんは、わかってるわかってる、と目尻に溜まった涙を拭いながら言って、また笑う。
マスターからお呼びがかかった。ミック&キースを気取った二人組のオヤジが、ストーンズを演りたがっているのだという。
『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』『サティスファクション』『ブラウン・シュガー』・・・定番の曲を演奏した。
例によってヴォーカルもギターもひどいものだったが、英五さんはいつものように絶妙のドラミングで即席バンドの音を支える。
優しいひとだと思う。オトナなんだな、とも認める。だからこそ、それが・・・いまはむしょうに腹立たしい。
ベースの音がとがる。遅れ気味のリズムを待ちきれなくて、先走ってしまう。
ミック&キースはともかく、英五さんにはそれくらいわかっているはずだが、なにも言わない。
遅いギターと先走るベース、それぞれの顔を立てるようなスティックさばきを見せる。
このひと、ほんとうはハンパじゃなく巧いのかもしれない・・・初めて思った。
『ブラウン・シュガー』を終えて客席に戻りかけたミック&キースを、英五さんは呼び止めた。
「『ホンキー・トンク・ウイメン』でもやりませんか?」と誘い、二人が乗ると、オレを振り向いて『付き合えよ」と笑う。
「思いっきりベース弾かせてやるからさ」と、言われても。
『ホンキー・トンク・ウイメン』はルーズなビートの曲だ。早弾きもないし、派手なチョッパーもキメられない。
ベースとしてはなんの見せ場もない曲なのだ。
「ヘイ! ベース!」
間奏で英五さんにソロを渡された。
難しい。
スローでルーズな曲でソロを弾くことがこんなにも難しいとは思わなかった。
張り切るとリズムをはずす。リズムをキープしているとトリッキーなフレーズが出せない。
高校生バンドでもレパートリーになるような初心者向けの曲だと思っていたのは、甘かった。奥が深い。
いままで得意だったアップビートの曲が、急にガキっぽく思えてきた。
曲が終わり、ベースギターを肩から下ろすと、がっくりと落ち込んでしまった。
そんなオレに、英五さんは言った。
「遅い曲をどう弾くかが、ガキのベースとオトナのベースの違いだぜ」
オレは素直にうなずいた。
「プロのベーシストの代わりに、これからはオトナのベーシストを目指せばいいんじゃないか?」
英五さんはそう言って、スティックを指先でクルッと回す。
オレは素直にうなずいた。
英五さんは多分、ベースのプレイのことだけを言っているではないと思ったから。
「じゃあ、今夜はもう帰るから、また明日」
何を言ってるんですか、と英五さんの背中に苦笑した。
明日は日曜日、居酒屋『ハセガワ」』定休日なのだ。
だが英五さんの言葉は嘘でも勘違いでもなかった。
オレは英五さんに会った。
三都神社の本殿で、神主さんのいでたちをした英五さんと。
かおりの隣で唖然とするオレに、英五さんはすまし顔で一礼して、お祓いを始めた。
玉串を神前に捧げるとき、ドラムスのスティックのようにクルッと回した、と思う。
気のせいだろうか。
神妙にうつむいて英五さんの祝詞を聴いていると、しだいに笑いがこみ上げてきた。
違うよなあ違うよなあ、と首をかしげたい。でも・・・これも「あり」だよなあ、と最後はうなずくだろう。
ふと見ると、晴れ着姿のかおりは長い祝詞に飽きて、足をぶらぶらさせていた。
その動きを目で追って、リズムを合わせて、頭の中えベースを鳴らした。
『ホンキー・トンク・ウイメン』よりもさらに遅く、複雑なリズムでも、それに合わせて弾きこなさないとな、と自分に言い聞かせた。
まずは今日の会食、わが家のへそくりをはたくか、と決めたとき、どこからか、うんと遠くから、チャーチャッ、ズンチャチャーチャ、と『ホンキー・トンク・ウイメン』のイントロが聞こえてきた。
(了)